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この世界がイヤになったのは、一度や二度のことではない。
押し寄せる男波、低い叫び声、気持ちの悪い吐息。
握手会で手を握られるたび、べっとりとついた汗をぬぐいたいと何度思ったことか。
スタジオを飛び出し、マネージャーの腕を振り切り、建物を出て適当に捕まえたタクシーに乗り込む。
行き先はどこを告げたのかは覚えてない。
タクシーを降りてからも、ひたすら歩いた。
ごみごみした汚い歩道。ぐるぐると目が回り、その場にうずくまった。
(ここ……どこだろう……?)
店じまいの歓楽街。道を行く人は誰も気にも留めない。
急ぎ足で近づいては遠ざかっていく。
スタジオを飛び出したのは深夜のはずだったが、何時間も歩いていたのだろう。
空はすっかり朝焼け色に染まっていた。
(足……痛い……)
ヒールの高いミュールを履いたまま酷使した足は、軽く血が滲んでいる。
その足を労わるようにさすっていると、目の端にゴミ箱を漁る猫が見えた。
自分は野良猫以下だと思った。
思わず丸めた、華奢で小さな体から空腹を訴える音が聞こえる。
(もう死ぬかも……ううん、きっと死ぬんだ……このまま……)
朦朧とした意識の水底で心地いい声が聞こえた。
「なんだ?家出娘か?」
そばに屈みこんで、誰かが言った。
答える気力も、もはやなかった。
整った顔立ちの男が自分の顔を覗き込んで、少し驚いたような顔をしていた。
「今にも死にそうな顔してる……。面白そうだから助けてやんよ」
ポケットに入れていた伊達眼鏡をかけされ、軽々と持ち上げられる。
お酒と、煙草と、仄かに香水のにおいがした。
そのまま大きな交差点の丼屋に連れて行かれた。
「要するに腹が減ってるんだろう?」
実に大雑把に男は言ったが、そのとおりだったので特に反論はしなかった。
「俺の奢りだから、好きなだけ食べていいよ」
言われるがまま、さして美味くもない丼を一心不乱にかきこんだ。
「一応確認。二度は聞かない。あんた、あの有名な初音ミクだよな?」
食べ終わると、目の前の男が小声で言った。無言のままで小さく頷いた。
騒ぎ立てることもなく、そうかと一言だけ言った。それ以上なにも聞かれなかった。
かわりにゆっくりと男を眺めることができた。
背が高く、スタイルもいいが、無駄にジャラジャラと着飾った男だった。
いかにもお水といった感じの、高級ブランドのモード系スーツに空色のネクタイ。首元には金の鎖がチラリと覗き、両手には計四つも指輪をはめている。
時間を確かめている時計は、恐らく何百万とするのだろう。
深い海の色に近く、自分の花緑青色の髪と比べたら特に珍しくもない深縹(コキハナダ)色。
両耳にはシルバーピアス。端正な顔立ちの美青年。
よく見ると鎖骨の辺りに刺青のようなものが見えた。
「お兄さん、何者……?」
一瞬、ヤクザじゃ……と思ったが、男は苦笑した。笑うと目じりが下がり、やさしそうな甘い表情になる。
「何者って、平凡なホストだよ。仕事帰りに軽く引っ掛けてきたところ。残念ながらヤクザじゃないよ。刺青してるけどね」
やたらと背が高くて手足も、指も長い。
襟元を少しだけ開いて、刺青を見せてくれた。
「俺の名前はカイト。苗字はいいよね?あんまり好きじゃないんだ。あんたのことはテレビでよく見せてもらってるよ」
「それは……どうも」
男の肩の向こう、ガラス越しに外が見える。
道路の向こう側にはピンクと白のケーキ屋が見えた。
「……やっぱり家出?……っていうのかな、こういうの」
少しの間沈黙が降りて、ミクは無言で頷いた。
「理由は聞かないよ。どうせ聞いても俺らみたいな一般人にはわからないだろうし」
カイトは立ち上がった。大きな手でミクの頭をなでる。
「で?俺んちに来たい?」
来たいもなにも、行くあてはないのだ。
友人の家や実家だって当に事務所が連絡を入れ、手を回しているだろう。帰れるはずもない。
ミクは彼についていくしかなかった。