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夕暮れ、六つ半の鐘が鳴る。
山の裾に太陽が消えかけて。
「あー……もうだめ……おなかいっぱい」
くつくつと揺らして笑う伊作は、部屋の真ん中に二つ敷かれた布団の上をごろりところがった。髪の毛が頬をくすぐる。
「食ってすぐ横になると牛になるぞ」
あきれた様子で言われ、ぷっと吹き出してしまった。
「君がそんな迷信じみたようなこというとは思わなかったよ」
「俺もお前があんなに食うとは思わなかった」
おかげで財布がただの布切れになっちまった、と文次郎は口の端に軽く笑みを浮かべながら窓際に腰を落ち着けた。
格子窓を吹き抜けてくる柔らかな風は暖かく、もうすぐやってくる春を告げる。
文次郎の髪を揺らし、伊作の頬を撫ぜてゆく。
「あー……でも……なんかもうすごい……気持ち悪い……」
「そりゃああれだけ食ったらなぁ」
笑いを含んだ声が、伊作が食べたものを指折り数えていく。
「団子だろ?焼き芋だろ?屑きり……あ、その前に食堂のおばちゃんが作ってくれた弁当があって……うどんと干し柿と……」
「なんだか食い倒れ旅行みたいだね」
「お前だけだろ?」
「文次郎だって同じくらい食べてたよーだ」
学園長のお遣いの帰り道。
二人だけでの遠出だからと、旅費をケチらず野宿ではなくて旅籠を利用してくれた文次郎の気遣いに伊作は心底感謝した。
この状態で野宿をしろといわれても、多分無理だっただろう。夜盗が襲ってきても、今のダルさでは対処しきれない。
(忍者としての自覚が足りないとか言われるんだろうなー)
と、考え事は忍者としての心得を大事にしている彼の言いそうな科白に思い至り、自然と笑みがこぼれる。
腹の皮が張るとまぶたが緩む。考えることでさえどうでもよくなってしまう心地よい眠気に、伊作はこのまま寝てしまおうと目を閉じて寝返りを打った。
まだ外は薄明るく、格子窓から聞こえてくる音で人の通りが多いなと感じる。
「なんだ、寝るのか?」
「うん……気持ち悪いのと心地いいのと……」
そこまでいって、擦り寄ってきた体温にくすっと笑みを漏らす。
「なぁに」
「いや、なんでも?」
背後から包み込むようにして抱きかかえられた。
「なんだか……すごく落ち着くな……」
「なんだそれ」
耳元で聞こえる声が笑う。
その心地いい声を聞きながら、響かせながら。
二人はゆっくりと眠りへと落ちていった。
思わず抱きしめた。
笑顔が今にも。
「伊作……!」
唐突に現れて、抱きしめられて。
その衝撃で、抱えていた落し紙を撒いてしまった。
「ど……どうしたの?文次郎」
「なんでもねぇ」
するりと背中に手を回すと、抱きしめるその腕に力がこもるのがわかる。
「……うだと思ったんだ」
「……え?」
これだけ近寄っても聞こえないほどの呟きに、思わず聞き返してしまった。
「なんでもねぇ」
引き剥がすように離されて、腕をつかまれる。背中が壁に当たる。
「君はいつでも急だねぇ」
困ったように笑と、文次郎は唇に笑みを浮かべる。
そしてその形のまま唇を重ねあう。
目を閉じて、そっと。
壊れ物を扱うかのような口付け。
そして現れたときと同様、唐突に気配は消えた。
「もんじ……ろう?」
目を開けて見てみればそこには誰もいない。
「どうしていつも、突然現れてはすぐにいなくなるのさ」
呟きながら、先程の衝撃で取りこぼした落し紙を拾う。
腕に、彼のぬくもりが残っている。
本当はちゃんと、聞こえていた。
『泣きだしそうだと思ったんだ』
(そう見えるのは、君に何か負い目があるからじゃあないのかい?)
問いかけるのは心の中。
拾いかけた落し紙を再び床に置いて、自分で自分の体を抱きしめる。
いなくなった体温が、恋しいと思った。
人は見かけによらない。
節くれだったごつごつした彼の指先は想いのほか器用だ。
保健室にやってきた下級生の着物に、綻びを見つけ繕ってやるその姿は、普段『学園一忍者している地獄の会計委員会会長』と、何やら仰々しい呼び名で恐れられている姿からは想像もできない。
「おら、直ったぞ」
そういって下級生の腰の辺りをぽんと叩いた。
「ありがとうございました」
治療も着物の繕いも終わった下級生は、恐縮気味にペコペコと何度も頭を下げて去っていく。
その背中を見送って障子を閉めると、こらえきれずにぷっと吹き出した。
「なんだよ、笑うなよな伊作」
少しは恥ずかしいらしく、照れたように壁を向いて裁縫道具を片す。
「文次郎って、何でも出来るんだなぁっておもってさ」
「バカタレ。忍者たるものこれくらいできんでどうする」
「そりゃあ僕だってちょっとした繕い物くらいは出来るけどさ」
まだ収まりきらない笑いを引っ込めようと、努力してみるものの、その努力をすればするほど笑いはとまらない。
「君が裁縫だなんて、似合わないんだもの」
「うっせぇなぁ。似合う、似合わねぇの問題じゃねぇだろうがよ」
伊作の笑いが文次郎にも遷ったのか、後ろのほうは声が震えている。
その声を聞いて、今度こそ伊作は大声を上げて笑ってしまった。文次郎もつられる様にして笑いだす。
「あははっあーあ……本当に珍しいもの見せてもらったよ」
二人して大笑いした後、床に転がって天井を仰いだ。
ひんやりとした床が寒さを呼ぶ。
「文次郎ってさ……本当面倒見いいよね。世話好きって言うかさ」
ふと真剣な声色に戻って伊作が呟く。
「あ?なんだよ、妬いてんのか?」
文次郎は、体を起こして伊作のほうを向く。伊作もまたそれに倣うように体を起こした。
「なんならその面倒見の良さと世話好きさで、お前のことも面倒見てやるよ。一生な」
求婚まがいの科白に、今度は二人して黙り込む。そしてどちらともなく吹きだした。
「何それ!クサっ!文次郎クサっ!コノ部屋臭ウヨ!」
「何だと!俺の一世一代の求婚をてめぇ!」
しかもこの部屋はお前の仕事場だろうがよ、と爆笑する伊作の頭を文次郎は乱暴にわしわしと撫で回した。
「そういうことは女の子にいいなよね!わかってる?僕男だよ?」
痛い痛いと抗議の声を上げながらも彼は嬉しそうに笑う。
「お前こそ満更でもなさそうな顔してたくせに。わかってんのか?男に求婚されたんだぞ?」
ようやく伊作を解放した文次郎がざまあみろ、と言わんばかりに口の端に笑みを携えた。
「そんなの……」
と、伊作は一度ゆっくりと目を閉じて、再び開く。
「そんなの分かってるよ。君からの求婚だからこそ、嬉しいんじゃないか」
柔らかなその微笑に、文次郎は一瞬固まった。自分の体温が上昇していくのがわかる。
片手で顔を覆い
「くそっ……やられた……」
とごちる。
その様子をみた伊作の微笑みは、文次郎の知らないところでしたり顔に変わっていく。
本当に、人は見かけによらない。
文次郎が案外に照れ屋だとういうことは、誰も知らない。伊作だけが知っている事実。
「長次が辞書引いてる…」
物珍しそうに指差したのは伊作だった。
沢山の書物を読み、いろんな方面の知識に長けている長次が辞書を引く姿は、思わず声を上げるくらい珍しかった。
「ホントだ。長次ぃ、何読んでるん?」
「…賢人の手記だ」
尋ねる小平太は、文次郎と饅頭の取り合いをして怪我をした挙句、結局は途中で部屋に入ってきた仙蔵に饅頭をとられ、べそをかきながら伊作の手当てを受けている。
この部屋の主である長次は来るもの拒まず、の精神なので、賑やかな友人たちが集う場には最適だった。
「どんなことが書いてあるんだい?」
興味を示したのは小平太の頬と文次郎の腕に絆創膏を貼る伊作。慌てず焦らず適切に処置を行う彼は、保健委員の鏡である。
「そうだな…南蛮ではない…南蛮のことか…」
言葉を選んだのに、意味がわからなくなってしまったことに言ってから気付いた。
「読めばわかる…」
そういって、彼はその手記を部屋の真ん中に置く。
「仙蔵と小平太は手を洗ってから」
饅頭で汚れた手のまま本に触るなということだろう。確かに饅頭を持ってきたのは小平太だったし、文次郎は小平太とやりあっただけで、何も汚れてはいない。伊作も手当てをしただけだ。
「さすが図書委員長だね」
そういって、仙蔵は小平太をお供に部屋を出て行った。
そして、残された二人は、手記を覗き込んみ、二、三行目を通して声を上げる。
「これは…」
「確かに…」
手記から顔を上げて思わず長次を見る。長次が瞳で『だろう?』と話しかけてくる。二人は思わず頷いた。
「英国か…。南蛮の近くだな」
「そうなの?」
文次郎の言葉と、伊作の質問に、長次は頷く。
「その手記は、賢人が英国に行ったときのものだ…」
「そんなものがよくこの学園にあったな」
思わず口に出した言葉に、持ち主は否、と首を振る。
「古書店で見つけて思わず買った」
「おまえなぁ…」
呆れた声を出しながらも、彼の性格を理解している二人は声を上げて笑った。
「で、何かいいこと書いてあった?」
「楽しそうだな」
手を洗って帰ってきた小平太と仙蔵が合流する。
「あ、今長次にこの本の内容聞こうとしてとこなんだ」
伊作がにっこり言うと、仙蔵が嫌そうな顔をする。
「人から聞くより自分で読んだほうが良くないか…?どうせ図書室にあるんだろう?」
「いや、それがさ、これ長次が古書店で買ってきたんだって」
話を聞きながら、仙蔵は腰を下ろしてあぁと声を上げる。
「こないだのやつか」
「ってことは仙蔵は知ってるんだ?」
仙蔵は首を縦に振った。
「そのとき、私も一緒にいたからな。しかし驚いたな。急にいなくなるから。探した探した」
快活に笑う彼に、すまんと一言謝る長次。傍からみるとなんだか滑稽である。
「で、結局どうだったんだ?」
「あぁ…。なかなか読み応えがある。南蛮以外のことが書いてるんだ」
「英国のコトだって」
「英国…どんなところなんだ?」
仙蔵が乗り気で聞いてくると
「自分で読んだほうがいいんじゃないー?」
小平太が揚げ足を取る。
「人の揚げ足取らないの」
と怒るのはなんとなく母親代わりの伊作。
「まだ途中までしか読んでいないんだが…」
語る長次に、三人が食らいつくようにふんふんとクビを縦に振る。
「英国には魔法の言葉があるらしい」
そういいながら書物をめくる。めくりながらある一文を読み上げる。
「片手を軽く挙げ、笑顔で『あらぶゆ』と唱えると、英国の人は皆笑顔になる」
「皆笑顔に?」
驚く三人に、文次郎はふんと鼻を鳴らした。
「そんなわけねぇだろ」
という彼の言葉を無視して、三人はどんな意味なんだろうとひたすら話し合っている。
「南蛮とか、英国の人って面白いよねー」
「でも皆笑顔になれる言葉があるなら、それはそれは幸せな国なんだろうな」
「日本もそんな風に笑顔になれる言葉があったらいいのにねぇ」
そういって、見上げた視線の先には、さっきまでいた人影はなかった。
「文次郎なら出て行ったぞ」
長次が部屋の外を指した。
「文次郎?」
慌てて追いかけた伊作は、見つけた彼に声をかける。
彼は学園のはずれにある池の傍に座っていた。
木陰があって、時折風が涼しい水面の空気を運んでくる。
「笑顔になれる言葉…な…」
ふとつぶやいた言葉に、伊作は首をかしげる。
「さっきの長次の持ってた手記の?」
文次郎は無言で頷く。とりあえず隣に座れと言われたので、おとなしく座った。
遠くで一年生が走らされているのか、声が聞こえる。
「変な話だな」
「え?どういうこと?」
「あれな…古書店に持ってったの、俺の知り合い」
頭をガシガシ掻きながら、文次郎はぽつりと言った。
伊作はそれに驚きを隠せなかった。
「えぇ?ってことは、あれ、文次郎の知り合いの人が書いたのかい?」
無言の肯定に、伊作は目を輝かせた。
「すごいねぇ」
「伊作」
突然呼ばれて、なぁにと返事をすると。
「愛してる」
伊作は頭が真っ白になった。
「なっなっ…」
頭が真っ白になったと同時に顔から火が出そうなほど真っ赤になる。
まじめな顔をして、何を言っているんだと、殴りたくなったが
「魔法の言葉」
「へ?」
真っ赤になったまま、気の抜けた声で返事をすると、文次郎は一つ溜息をついた。
「さっきの、長次が言ってた魔法の言葉とかいうやつだ」
「『あらぶゆ』…?」
こくんと一つ頷くと、文次郎はゆっくりと伊作に口付けた。
「I love you. 伊作」
今でも記憶に残る、あの夏の日。
それはまだ幼かった一年生のころの出来事。
ちょうどこの木陰の辺りで休み時間に文次郎は箒を振り回して遊んでいた。
その箒が、僕の頭に当たり痛みと驚きで泣き出してしまう。
『おいっ!泣くなっ!先生がきちまうだろうがっ!!』
大声で叫んでしまったせいか、ビクつき泣き止んだのがまた泣き出す。
今から考えてみれば泣き出した僕を泣き止ませるのは焼け石に水だった。
おろおろしつつも必死で泣き止ませようとしているところへ、教師が飛んで来て頭をぽかりとやられた。
『周りを見ていないからそういうことになるんだ。注意力が散漫だといい忍者にはなれないぞ』
結局お小言をもらい、文次郎は不貞腐れていた。
「おい、何ニヤニヤしてんだよ」
通りがかりに声をかけられる。
「ちょうどこの木陰の辺りだったから思い出しちゃったんだ。君が僕を初めて泣かせたときのこと」
ふふっと笑うと目の前に現れた文次郎は変な顔をした。
「お前そりゃあ、一年の時のことだろうが。……すっかり忘れたぜ」
ならどうして一年の時だって覚えてるのさ、なんてそんな意地悪なことは言わない。
それは君の照れ隠しだって知っているから。
「夜に初めてお前を啼かせたときのことは覚えてるがな」
「もう、文次郎ってば」
したり顔で笑う文次郎に、多分頬は赤くなってる。
僕は木陰にもたれて、日向と日陰で二人で話す。空気がひやりと涼しくなった気がした。
「ところで、何か用事だった?」
にっこりと笑顔を向けると
「おう、図書室に本を返却しに」
長次がうるせーからなと書物の束を見せてくれる。本当は長次ではなく、同室の仙蔵がうるさいのだろうけれど。
「急がないと図書室しまっちゃうね」
「あぁ……じゃあ行くわ」
「うん」
それだけ言って別れようとすると、文次郎が思い出したように呼び止めた。
「伊作、ちょっと目ぇ閉じろ」
「へ?」
唐突のことに、反応しきれない。
「良いから早く」
そっぽを向いたまませかす文次郎に、僕はしぶしぶ目を閉じる。
一瞬だけ、唇にカサついた感覚があって、人の気配が消えた。
「もう……ほんっと……バカ……」
再び赤くなってしまっただろう頬を両手で挟んでくつくつと笑う。
瞳を閉じて。
それは、恥ずかしがり屋な君の、口付けの合図。
こっちが恥ずかしい!!!←