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仙蔵は田舎のとある宿屋に泊まっていた。
朝、窓の障子を開けるとすばらしい緑が広がっていたので
「すみません」
と手をたたいて宿の女中を呼んだ。
女中の名前を秀と言った。
「はい、おはようございます、立花様」
のほんとした笑顔がかわいらしい。
「何かご用でしょうか?」
「えぇ、ここの景色が余りにもすばらしいので。悪いですがこちらにチョウズを廻してくれませんか?」
「は?」
秀は思わず訊ね返してしまった。
「こちらにチョウズを廻してください」
「少しお待ちください。旦那様と相談して参ります」
秀は首を傾げながら仙蔵の部屋を後にした。
「旦那様ぁ」
返事も待たず、秀はスパンと勢いよく障子を開けた。
「いつも返事を待って障子をあけろっつってんだろ」
算盤を弾きながら叱るのはこの宿の主である文次郎である。
「ぅ…ごめんなさい…」
「で、用件はなんだ。速やかに言え」
文次郎は顔を上げることなく算盤を弾き続ける。
「あのぉ…立花様がチョウズを廻してほしいとおっしゃってるんですが…」
「なぜだ!!」
言い終わると同時に飛んでくる罵声にビクつく。
「何か変なこと言いました…?」
秀の瞳は潤んでいる。
「いや、計算が合わねぇんだ。で、何だって?」
「ですから立花様がチョウズを廻してほしいと」
狼狽しながらももう一度伝える秀。
「あぁ、それなら板場の桜の仕事だから伊沙子に聞いてくれ」
秀は文次郎の部屋から追い出された。
「というわけで、お訊ねしたんですけど…」
秀は事の経緯を話した。
「チョウズ…いや…しらないなぁ…」
伊沙子も腕を組み首をひねる。
秀がではそのことを伝えてきますと言うと
「まぁいいや。僕が直接文次郎にきいてくるよ。そっちの方が早いから」
にっこり笑って伊沙子は板場から文次郎の部屋へ移動した。
「何だよ。おまえも知らないのか」
算盤を弾く指を止め、文次郎は腕を組む。
「そうだ!七松寺の和尚に聞きにいったらどうかな?あの和尚、自分は物知りだって自慢してたし」
それはいい案だと文次郎が膝を打ち、伊沙子は七松寺へ使いに走った。
嗚咽を漏らすような声が聞こえて、伊作は部屋の前で立ち止まった。
入るべきか入らざるべきか少し迷った。
親友である仙蔵なら慰めてやりたい。
だが、もしも文次郎だったら。
そう考えて障子の手前で手が止まる。
恋人である文次郎が泣いていたなら、自分はどうするべきなんだろう。
それでも意を決して少しだけ障子を引いた。その隙間からするりと入り込む。
夏の暑い時期に締め切った部屋はやはり蒸し暑かった。
がらんとした部屋の片隅で、彼はうずくまっていた。
目を右手で覆い、ひざを抱えて壁にもたれている。
伊作はゆっくりと近づいて手を伸ばした。
その指が触れる前に体はびくりと震えたが、おそらく伊作が部屋の前で迷っているときから気づいていただろう。
柳眉を寄せたまま口元を緩めると、横に座って優しく彼の頭を撫でた。
いつも被っている頭巾は左手にクシャクシャなって握られている。
あまり手入れされていない髪がちくちくと刺さって少しくすぐったかった。
二人でしばらくそうしていた。
文次郎は膝を抱えたまま、伊作は彼の頭を撫でたまま。
ここに来たころには南に上がっていた太陽も、今では西に傾いていた。
彼は泣いている理由を一切語らなかった。
涙を流してもいなかった。
ただ、泣き終わったあとに一言
「ありがとう」
とだけ言った。
普段が普段だけに、伊作はなんだか変な気分に襲われた。
髪にそっと口付ける。
夜風がふわりと縁側の風鈴を揺らした。
月の出ない朔の日は忍者にとって黄金時間である。
それはある男にとって、とても重要なものであった。
走り出す。
軽く息を弾ませる。
クナイを投げる。
的に当たる。
静かにすべてを遂行する。
すべては強くなるために。
「夜中にたずねてきたかと思えば、無茶をする」
呆れのため息を漏らした。
綺麗な包帯を巻かれていく手は小さな行灯に照らされて橙に光る。
「服は土ぼこりにまみれてるし。はい、できた」
無理しちゃダメだよ、と包帯を巻き終わった手をきゅっと握ってぽんぽんと軽く叩く。
「夜中のトレーニングもいいけど、あんまり無理はしないで」
「おい」
そそくさと立ち上がり救急箱を片付けに部屋へと戻ろうとする伊作の腕を掴み、包帯を巻かれた手が引き止める。
「なんで泣いてるんだ」
月光に照らされて、こぼれた雫がきらりと光った。
「兎に角落ち着け」
何処となく焦ったような声色に、伊作はうんと頷くが込み上げる熱いものはなかなか止まらない。
参ったなぁと言う風にガシガシと頭を掻くと、しゃがみ込んでしまった頭を抱き寄せ軽く撫ぜた。
「どうしたんだ、急に」
「……文次郎が……死んじゃった……」
飛び出した言葉に思わず目を見開く。
「じゃあ今ここにいる俺は何だよ」
できるだけ優しい声色で言い聞かせるように囁く。
「腕に怪我したくらいで死んだりしねぇよ。お前が一番わかってるだろう?」
夢でよかった……と枯れた声が呟く。
「夢でも……庭から誰かが……やってきて……文次郎が……息も絶え絶えで……僕はどうにもできなくて……それで、文次郎は……息を……っ」
泣き止みかけたところで、また泣き出した伊作を、文次郎は強く抱きしめた。
「あー、わかったから。泣くな。な?」
どれだけの時間そうしていたのか。
行灯も風で消え、月明かりだけが青白く二人を照らし出す。
「俺は簡単に死んだりしねえよ、そのために強くなるんだからな」
額と額をくっつけ、ようやく泣き止んだ伊作の頬を転がる涙を指で拭った。
「でも嬉しかったぜ」
「……え?」
「夢であろうが、俺の最後を看取ってくれたのがお前だったなら、俺は本望だからな」
頬に紅葉を散らした伊作の髪をゆっくりと撫ぜる。下ろされた洗い髪はさわり心地が良かった。
その髪にそっと口付ける。
夜風がふわりと縁側の風鈴を揺らした。