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翌朝
「伊沙子…起きろ」
「あぁ…おはよう…」
欠伸混じりに返事をする彼女は
「ごめん…昨日はなんか…眠れなかったんだ…チョウズの意味が分かるかと思うと緊張して…」
目をこすりながら笑った。
「しかし何だろうなぁ…チョウズ…」
「女中さん呼んでみたら?立花様が呼ばれたのもこれくらいの時間だったし…」
おまえが言えよと言う文次郎に伊沙子は穏やかに渇を入れる。
「だってこういうものは主人が言うんじゃなあかなぁ。君は僕の主人でしょ?」
照れくさくなって、なんだかなぁと思いつつも言われるがまま、結局文次郎が女中を呼ぶことになった。
「なんかドキドキするなぁ…」
咳払いを何度もして、文次郎は手をたたいた。
「おぅい!誰かいるか!」
まもなくして女中がやってきた。名を半子と言った。
「おはようございます。夕べはよくお休みになられましたか?」
にこにこと笑う半子に文次郎は鷹揚にうなずく。そして
「すまないが、こちらへチョウズを廻してもらえないか?」
と頼んだ。
半子はかしこまりましたと、部屋から出ていった。
それまで悠長にしていた二人だったが、襖が閉められたとたん、狼狽する。
「どうしよう!あんなにあっさり引っ込んじゃったよ!」
「あれだな!旦那様に相談してきますとか言わなかったな!」
二人の中でますますチョウズの謎は深まっていく。
そしてしばらくして
「お待たせいたしました」
半子が盆を運んできた。
盆の上には二人の考えるチョウズらしきものはなかったが、湯を張った器と白い粉の山と短い棒が乗っていた。
半子がでていった後、二人はうーんとうなりだす。
そしてひらめいたのは伊沙子だった。
「あ!これは料理だよ!」
山と盛られた白い粉をなめて
「うん、塩だ。塩は料理で味付けに使うものだろ」
にこにこと伊沙子は塩を湯の中に入れた。
「で、たぶんこの棒でかき混ぜるんだよ」
「それじゃあお前、廻すのは何を廻すんだ?」
棒でかき混ぜることだとか回りながら飲むとか廻し飲みをするとか、いろいろ案はでたものの、結局は椀を廻すのだろうと言う結論に達した。
「茶の作法でそういうのがあると聞いたことがある」
器を廻しながら文次郎はつぶやいた。
「そろそろいいんじゃないかな?」
頷いた彼は廻し続けていた器にそろりと口を付けた。
「味がしねぇ」
チョウズを口に含んだ第一感想だった。「もしかしたら薄口なのかもしれないよ?ほら、上方の料理は味付けが薄いっていうじゃない」
伊沙子は隣でうきうきする。
「まぁそう急くな。ちゃんとお前の分も半分残してやるから」
そういって文次郎は器を伊沙子によこした。
「うーん…確かに薄口かも…」
彼女も文次郎と同じ感想を漏らし、だろ?と問いかけてくる瞳に瞳で頷いた。
「でもこれくらいの料理なら僕でも作れそうな気がするけどなぁ…ってか文次郎、これ…半分より多くない?」
「そんなことねぇよ。まぁとりあえずこれで浪速から客が来てチョウズって言われても狼狽しなくてすむな」
「そうだね…あぁ…やっぱり半分より多いよ…もうお腹いっぱい…一滴も飲めない…」
思わずごろりと横になる伊作に行儀が悪いぞと渇をとばしていると
「失礼いたします」
再び半子がふすまを開けた。
「遅くなりましたがお連れ様の分、こちらに置かせていただきます」
その科白を聞いて文次郎は狼狽し、伊作は寝た振りを決めた。
「おい、伊沙子…さっきのは俺の分でこれがお前のだとよ…」
「もう無理…」
唸るような返事に文次郎は
「悪いが…これは昼にいただくよ」
この科白が笑顔で対応していた半子の爆笑を誘ったことは言うまでもなかった。
「和尚!ってか小平太!」
境内の中、袈裟を着た坊主に伊沙子は駆け寄った。
「あれ、どうしたん?いさっくん」
身分の高い和尚と気軽に話せるのは、お互いが寺の生まれであり、幼なじみであるからである。
「あのね小平太。チョウズを廻すって何か知ってる?」
「えーっと、次の法事はいつだったかなぁ…」
まじめな顔をしてお堂の中に戻ろうとする小平太に
「もしかして知らないの?」
と問いかけると。
「何言ってんの。ちびしー修行を受けた私に知らない事なんてないよ!」
「それじゃあ教えてよ」
にこにこと訊ねると小平太は神妙な面持ちで実はねと切り出す。
「実はねチョウズって言うのは…」
「うん…」
聞く方も緊張するのか神妙になる。
「隣村の長次のことなんだ…。ほら、ずーずー弁で言うと<ちょうず>だろ。浪速ですごく有名になってるらしいよ」
伊沙子はその答えをそのまま文次郎に伝え、そして隣村から長次をつれてきた。
一方長い間待たされている仙蔵はいい加減にしびれを切らしていた。
「遅いなぁ…まったく…何をしているんだろう…」
そこへ長次がやってきた。
「立花様…ですね…。お呼びだと聞きましたが…本当に私でいいのでしょうか…」
ぼそぼそと聞き取りにくく話す長次に仙蔵は
「…さっきの女中さんはどうしたんだ…?」
とつぶやき、まぁいいかと思い直す。
「あなたでかまいません。申し訳ないですが、チョウズを廻してくださいませんか」
「はい…どこで廻しましょう?」
返答に仙蔵は渋い表情を見せる。
「どこもなにも。ここですが」
「ここ…ですか」
長次が少し照れたように頭を掻く。
「何分私は初心者なもので…浪速でそんなに有名になっているとはつゆ知らず…では…すこし失礼をばして…」
そういって長次は立ち上がると舞をまうようにくるくる回りだした。
呆気にとられる仙蔵は一瞬目をしばたたかせ
「何してらっしゃるをんですか?早くチョウズを廻してください」
「はぁ…もっと早くですか…?」
先ほどより少し早く回り始めた長次の表情に疲労が伺える。
「何をしてるんですか?ちゃっちゃと廻してください」
仙蔵の言葉の意味が分からず、長次は回りながらうなった。
「ん~~~…チャッ!ん~~~…チャッ!」
「お客様は怒って帰られました…」
対応に疲れたのか力の抜けた様子で秀が文次郎のところへ報告にくる。
「ということは長次のことではなかったという事か…」
筆をくわえて文次郎はうなった。
「で、当の長次はどうしてるわけ?」
文次郎の湯呑みでお茶を啜るのは伊沙子である。他人はそんなことをすればもちろん怒られる。
「部屋で目を回して倒れてます…」
秀の答えに思わず二人は視線を合わせた。
「やっぱりあの和尚の話はでたらめだったか。なぁ、あの和尚がこの村に初めて来たときのこと覚えてるか?」
「いや…僕はまだいなかったから…」
笑う伊沙子にああそうかと相槌を打つ。
「あいつがきたのはなんかでっかい法事があったときなんだ。あの和尚、経典読みながらお経を上げてたんだが、難しい漢字のところへくると、う~~~~~ん…う~~~~~ん…と唸りはじめたんだ。で、そばにいた古株の和尚が見るに見かねて<もういいからそれとばせ>って言ったらそいつ、経典をばーんて前に…突き飛ばしやがったんだ」
伊沙子と秀は目をまん丸にした。
「でもほかの奴らはそんなことしらねぇからな。<ここの宗派はここまで教が来たら経典を前にとばす宗派なんだぁ>って妙に納得してやがった」
ひとしきり笑った後、伊沙子は切り出した。
「で…どうしよう…また浪速からお客が来てチョウズ廻せって言われたら困るよ?」
「そうだな…また長次を呼んで目を回させるわけにもいかねぇし…」
少し悩んでそうだと叫んだのは文次郎。
「今から浪速の旅籠にいって明日の朝<チョウズを廻してくれ>と言えばその意味が分かるかもしれんぞ」
早速その夜、伊沙子と文次郎は浪速へと足を運び、手近な旅籠へ泊まった。
仙蔵は田舎のとある宿屋に泊まっていた。
朝、窓の障子を開けるとすばらしい緑が広がっていたので
「すみません」
と手をたたいて宿の女中を呼んだ。
女中の名前を秀と言った。
「はい、おはようございます、立花様」
のほんとした笑顔がかわいらしい。
「何かご用でしょうか?」
「えぇ、ここの景色が余りにもすばらしいので。悪いですがこちらにチョウズを廻してくれませんか?」
「は?」
秀は思わず訊ね返してしまった。
「こちらにチョウズを廻してください」
「少しお待ちください。旦那様と相談して参ります」
秀は首を傾げながら仙蔵の部屋を後にした。
「旦那様ぁ」
返事も待たず、秀はスパンと勢いよく障子を開けた。
「いつも返事を待って障子をあけろっつってんだろ」
算盤を弾きながら叱るのはこの宿の主である文次郎である。
「ぅ…ごめんなさい…」
「で、用件はなんだ。速やかに言え」
文次郎は顔を上げることなく算盤を弾き続ける。
「あのぉ…立花様がチョウズを廻してほしいとおっしゃってるんですが…」
「なぜだ!!」
言い終わると同時に飛んでくる罵声にビクつく。
「何か変なこと言いました…?」
秀の瞳は潤んでいる。
「いや、計算が合わねぇんだ。で、何だって?」
「ですから立花様がチョウズを廻してほしいと」
狼狽しながらももう一度伝える秀。
「あぁ、それなら板場の桜の仕事だから伊沙子に聞いてくれ」
秀は文次郎の部屋から追い出された。
「というわけで、お訊ねしたんですけど…」
秀は事の経緯を話した。
「チョウズ…いや…しらないなぁ…」
伊沙子も腕を組み首をひねる。
秀がではそのことを伝えてきますと言うと
「まぁいいや。僕が直接文次郎にきいてくるよ。そっちの方が早いから」
にっこり笑って伊沙子は板場から文次郎の部屋へ移動した。
「何だよ。おまえも知らないのか」
算盤を弾く指を止め、文次郎は腕を組む。
「そうだ!七松寺の和尚に聞きにいったらどうかな?あの和尚、自分は物知りだって自慢してたし」
それはいい案だと文次郎が膝を打ち、伊沙子は七松寺へ使いに走った。